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陜川郡 日本語 有形文化財


○ 海印寺大寂光殿毘盧舍那三尊佛

指定番号 : 有形文化財 第38号

指定日  : 1972年 2月 12日

所在地  : 陜川郡 伽倻面 緇仁里 10番地

規 模  : 本尊仏 235cm, 脇侍仏 196cm

数 量  : 3具

構 造  : 座像

材 料  : 木材

時 代  : 朝鮮初期


毘盧遮那仏の“広く明るい光を隅々まで照らす”〔光名遍照〕は`光の仏`でもあるし、真理の仏でもある。と言うことで毘盧遮那仏が奉安されているところを大寂光殿それとも大光明殿と言い、あるいは仏の名前から毘盧殿とも言う。

 この大寂光殿には中央の毘盧遮那仏をはじめ大きさが違う7具の仏像と菩薩像が奉安されている。その中に文化財として指定されているのは中央の毘盧遮那仏と宝冠をかぶっている2具の菩薩像である。毘盧遮那仏は元々金塘寺と言う寺の仏像だったが、ある時寺が荒廃化〔廃寺〕された後、仏像を龍起寺に移し、1897年(光武1)に再びここに移されてきた。仏像は丸く巻かせた髪の毛の間に玉を表現した。

 また一般的な毘盧遮那仏とは違い、両手の指を組み合わせている形をしていることも面白い。両肩にかけている〔通肩〕服の裾〔法衣〕の流れは生きているみたいな立体感を見せている。二つの菩薩像は木で作られたが、左の方は知恵を象徴する文殊菩薩で、右の方は功徳をあまねく施す普賢菩薩である。両方とも中央の本尊仏に仕えて〔脇寺〕いる。仏像は全て威厳を備えているかたわら穏やかな姿を見せている。これら仏像は朝鮮初期の作品と推定される。



○ 海印寺法寶殿毘盧舍那佛坐像

指定番号 : 有形文化財 第41号

指定日  : 1972年 2月 12日

所在地  : 陜川郡 伽倻面 緇仁里 10番地

規 模  : 本尊仏 125cm, 脇侍仏 47cm

数 量  : 1具

材 料  : 木材

時 代  : 朝鮮時代


指定番号 : 道有形文化財 第41号

指定日  : 1972年 2月 12日

所在地  : 陜川郡 伽倻面 緇仁里 10番地

材 料  : 木材

構 造  : 座像

規 模  : 本尊仏 125cm, 脇侍仏 47cm


 ここの法宝殿に安置されている毘盧遮那仏は木で造られた。毘盧遮那仏は"広く明るい光をすみずみまで照らす"〔光明遍照〕は`光の仏`である。この仏は全ての仏の中で根本になる仏で、真理その自体を象徴するために`法の仏`〔法身仏〕とも言う。ここの法宝殿はここから由来した名である。毘盧遮那仏は大概 蓮華臺の上に左手の人指し指を右手で握っている形象〔智拳印〕で奉安される。毘盧遮那仏のこの両手の形は仏と衆生が一つであることを象徴し、この仏像のみに見られる。蓮華臺は蓮華藏世界を象徴するが、蓮華藏世界は宇宙万物を全部収めている所なのでこの仏は宇宙全体を治める仏である。

 ここの法宝殿にある毘盧遮那仏は左右にそれぞれ知恵の菩薩である文殊菩薩と功徳の菩薩である普賢菩薩がある。仏の頭は丸く巻かせた髪の毛にサンツーをしている様子がはっきり表現され、中央には玉を飾った。顔は細長いほうで、耳は肩に届くほど長い。首には三つのしわ〔三道〕がくっきりあるし、典型的な毘盧遮那仏の手の形〔手印〕をしている。左の肩にかけている〔右肩偏袒〕服の裾〔法衣〕は服のしわが明らかに作られるくらい体に密着して彫刻し、このおかげで立体的に見える。全体的に雅やかで調和のとれた美しい仏像である。 新羅時代の芸術的な特徴がよく表れ、その時期に製作された仏像と推定される。



○ 大同寺址石造如來坐像

指定番号 : 有形文化財 第42号

指定日  : 1972年 2月 12日

所在地  : 陜川郡 大陽面 伯岩里 102-1番地 一帯

規 模  : 仏身 高 150cm, 座臺 高 60cm

材 料  : 花崗岩

時 代  : 統一新羅時代



 この仏像は8角の蓮花臺の上に跏趺坐をして座っている。仏像の顔の部分はひどく摩滅された。そのわりに体と蓮花臺は比較的によく保存されている。更に両肩にかけている〔通肩〕服の裾〔法衣〕もわりとはっきり残っている。膝の上にある右手は人指し指で土を指し、左手は手のひらを上に向いたまま膝の上に置いているが〔降魔觸地印〕、これは仏が気ずいた瞬間を象徴する。三つになっている蓮花臺は柱の役割をしている8角の中臺によって上․下の臺が繋がっている。8角の中臺には仏の世界を守る神將が刻まれており、上․下の臺にはそれぞれ空と地を向いた蓮の華が彫刻されている。仏像は一部破損されて、セメントで補修したが、造形様式から見ると統一新羅時代に製作されたと推定される。

 元来ここは大同寺の敷地で一名、白巖寺とも呼ばれている。大同寺は906年(新羅 孝恭王10)に陽斧と言う人が直した禪宗寺刹だったと言う。1065年(高麗 文宗19年)には秀立と言う住持が寺の規律〔院中尙規十條〕を決めて5層石塔を建て、仏の舍利24果を奉安したと言う。その以来の沿革は伝われてないが、大略 高麗末とか朝鮮初期に廃墟されたと推定される。



○ 三嘉 岐陽樓

指定番号 : 有形文化財 第93号

指定日  : 1974年 2月 16日

所在地  : 陜川郡 三嘉面 金里 622-12外3筆地

規 模  : 10坪(正面 3間、側面 2間)

数 量  : 1棟

材 料  : 木造瓦家


  この楼閣は東の方にグァンアの敷地が残されたことから朝鮮時代 三嘉県城の中にあった官庁の付属建物と思われる。創成年代は正確に分からないが、この建物に李舜臣 将軍が泊ったことがあると言う記録から見ると壬辰倭亂 以前に建てられたようだ。朝鮮時代の地方官公署の建物が15世紀にたくさん建てられたので、その頃に建られた可能性が最も高い。

 岐陽樓と言う名はこの地域の名称から由来したと考えられる。ここの地名が統一新羅 景德王(742~765在位)の時 三岐県から江陽郡に変わったことがあるが、この地名から`岐`と`陽`二文字を抜き出したみたいだ。こういう方法は朝鮮時代 官庁の名前を作る時よく用いられた。この建物は現在、陜川郡で一番古い木造瓦楼閣として、正面 3間、側面 2間にギョブ軒、パルザック屋根で造られた。2階は縁側の回りに鶏のとさか模様の欄干を回らし、安全と美学、両方を高慮した。2階の縁側は広くて四方が開けているので主に宴会場として使われたはずだ。咸陽郡 安義面には朝鮮 太宗の時、建てた光風樓があるが、岐陽樓と形態がとても似ている。



○ 新羅忠臣竹竹碑

指定番号 : 有形文化財 第128号

指定日  : 1974年 12月 28日

所在地  : 陜川郡 陜川邑 陜川邑 山1-1

規 模  : 高 140cm、幅 54cm,厚さ 19cm

材 料  : 花崗岩


 この碑は642年(新羅 善德女王 11)に 大耶城で戦死した竹竹の忠節を称えるために建てたのである。新羅の大耶城は642年に尹充が率いる百濟兵に取り囲まれた。その時、城主である金品釋から自分の妻を奪われた黔日が倉庫に火をつけて、城中は混乱に陥った。それによって戦意を失った金品釋は部下である竹竹の引き止めを振り切って降伏した。しかし百濟兵が降伏しに出て来た人々を皆、殺したら金品釋は妻と子供を殺して自分も自殺した。竹竹は残っている兵士を率いて戦ったが、百濟兵を勝つことはできなかった。彼は"お父さんが私を竹竹と名付けたのは寒い時も枯れることなく、折れる時はあっても曲げないようにと言うことだ。どうして死が怖くて降伏するか"と言ってから戦っている中、戦死した。

 竹竹の忠節と勇猛を聞いた善德女王は彼に級飡の官等を授けて、彼の妻子を王都に来て住むようにした。高さ1.4m、幅54cmの花崗岩で建てたこの碑石は竹竹の忠節を称え、その意志を後代に伝えるために、1644年(仁祖 22)に陜川郡守 曺希仁によって建立された。碑文は寒沙 姜大遂(1591~1658)が書いた。



○ 敬齋先生文集冊板

指定番号 : 有形文化財 第171号

指定日  : 1979年 12月 29日

所在地  : 陜川郡 冶爐面 冶爐里 103-1番地

数 量  : 92枚

材 料  : 木板

時 代  : 朝鮮時代(1919年)


敬齋 河演(1376~1453)の文集は1609年(光海君 元年)に子孫達によって編纂されてから数回も発刊された。ここに保管されている冊版は1919年に刊行された文集の冊版で全て92枚である。元々は密陽で板刻されたが、ここへ移した。『文集』は 河演の詩をはじめ、サンソ厶ンや当時の人達と取り交わした手紙など色んな内容の文が載せている。従って彼の思想と学問、政治観に関する研修をするには必須資料である。更に彼が朝鮮王朝初期の宰相を歴任したので、この文集は朝鮮王朝の成立過程についての研究をするためにも大事な歴史的資料である。河演は新稀翁とも呼ばれた。位牌は文宗の文廟に一緒に祭っている。



○ 浩然亭

指定番号 : 有形文化財 第198号

指定日  : 1981年 12月 21日

所在地  : 陜川郡 栗谷面 文林里 224-1外3筆地

規 模  : 正面 3間、側面 2間

材 料  : 木造瓦家

時 代  : 朝鮮時代


朝鮮時代の士大夫は良い時が回らせて来ると朝廷に出て、そうではないと帰郷して自然を友にして過ごした。その時、帰郷した士大夫が熱心になってすることの中で一つが亭子を建てることである。この亭子は朝鮮中期 二樂堂  周怡(1515~1564)が禮安県監を辞職した後、故郷に帰ってきて弟子達を教えた所である。本来の亭子は壬辰倭亂の時、焼かれてしまい子孫達が新たに建てたと言う。一般的に亭子は狭い谷に場所を取ってあるがこの亭子は遠いところを眺められる樓閣のように景観を広く見られるところに建てた。これを通して建立した人の自然観を分かることができる。そのゆえに浩然の気を養うと言う建物の名称とよく似合う場所である。

 建物は正面 3間、側面 2間の翼工式、パルザック屋根の形だが、色んな様式が交ざり合った大変、独特な形態である。このように奇妙な建築方式のおかげで、朝鮮時代亭子の中で変わった作品の一つとして選ばれる。各部分の資材使用も一般建物では見掛けられないくらい人工的な控え目とか秩序を無視して自然そのままの姿を再現した。建物の持ち主の自然観と建物の名が絶妙に釣り合う建築物だと思われる。



○ 秋潭先生文集冊板─龜山先生文集冊板

指定番号 : 有形文化財 第210号

指定日  : 1982年 8月 2日

所在地  : 陜川郡 佳會面 含芳里 620番地

数 量  : 86板

材 料  : 木板

時 代  : 朝鮮時代(1910年)


 ここの龜陰齋 保護閣では『秋潭文集』と『龜山文集』を刊行するために刻んだ木版86枚が保管されている。『秋潭文集』は秋潭 尹銑(1559~1640)の詩とサンソ厶ン、手紙などを子孫達が集めて1910年に刊行した文集である。尹尹銑は1588年(宣祖21)科挙に及第した後、六曹の參判․判書などいくつかの官職に歴任したりしたが、末年には官職を辞退し、山水を楽しみながら余生を終えた。尹銑は壬辰倭亂の前後の人物で、この文集では彼の時局観がよく出されている。さらにまたこの文集は壬辰倭亂、当時の義兵の行跡と晉州城戦いについて色んな事実も書いているので壬辰倭亂 研究に良い資料になる。

 『龜山文集』は龜山 尹鐸(1554~1593)の詩と文章を子孫達が整理して1910年に刊行した文集である。この文集には尹鐸の著述以外にも1910年、刊行する当時の文人達の文も一緒に載せている。尹鐸は尹銑の従兄で、壬辰倭亂が起きると故郷で義兵を集めて郭再祐と共に多くの大功を立てた。第1次 晉州城戦いの時、 金時敏を手伝って参戦し、1593年、第2次 晉州城の戦闘で戦死した。晉州城の矗石 旌忠檀には彼の衷情を称える位牌が安置されている。



○ 草溪鄕校

指定番号 : 有形文化財 第227号

指定日  : 1983年 8月 6日

所在地  : 陜川郡 草溪面 草溪里 245,山7番地

規 模  : 7棟

材 料  : 木造瓦家

時 代  : 朝鮮時代


郷校は儒教のかつての聖賢を仰ぎ、地域社会の人材を養成し、美風良俗を奨励する目的として設立された伝統時代の地方教育機関である。草溪鄕校は朝鮮初期に建立されたそうだが確実な年代を分かることはできない。但し、壬辰倭亂が起きた時、焼かれたのを1628年(仁祖 6)に再建し、1800年代前半に今のところに移してきたと言う。その以来、数回の修造を通して現在に至っている。鄕校の空間は教育と祭礼、二つの領域に分かれる。儒生が学問を鍛えみがく明倫堂と日常生活を過ごす東․西斎は教育機能を担当し、孔子と著名な儒学者の位牌を祭る大成殿及び東․西廡は祭礼機能をそれぞれ受け持っている。

 草溪鄕校の建物配置は教育空間を前の方に、祭礼空間を後ろに置く鄕校建物配置の一般的な形である前學後廟の様式を従っている。現在の東․西斎は明倫堂と釣り合うため1993年に建てたのである。儒教の教育理念を収めている明倫堂の平面構造は一般 明倫堂とそれほど違いはないが、左にある部屋の裏の窓と戸の真ん中に柱を建て窓が二つに見えるようにした楹雙窓が独特である。左の方にはその痕跡の溝だけが残っている。楹雙窓は18世紀以後からは現れてないのでこの建物がそのくらい古いと言うことを証明する。表門である風化樓はカメ模様の礎に柱を建てたのが独特で、出入り口の上に`入德門`と書かれた懸板をかけた。ここに入って来る人は功徳を積んで学問に充実するように警戒する言葉である。



○ 陜川鄕校

指定番号 : 有形文化財 第228号

指定日  : 1983年 8月 6日

所在地  : 陜川郡 冶爐面 九汀里 311

規 模  : 8棟

材 料  : 木造瓦家

時 代  : 朝鮮時代


郷校は儒教のかつての聖賢を仰ぎ、地域社会の人材を養成し、美風良俗を奨励するために建立された伝統時代の地方教育機関である。陜川鄕校は朝鮮世宗(1418~1450)の時、建立されたようだが、確実な年代は分からない。但し1843年(憲宗9)に大成殿を修造し、1881年(高宗18)に水害のこととて陜川郡庁をここに移す時に鄕校も一緒に移したという。陜川鄕校は慶南ではめったにない平地にある。鄕校の空間は教育と祭礼の二つの領域に分かれる。儒生が学問を鍛えみがく明倫堂と日常生活を過ごす東․西斎は教育機能を担当し、孔子と著名な儒学者の位牌を祭る大成殿及び東․西廡は祭礼機能をそれぞれ受け持っている。

 陜川鄕校の建物配置は教育空間を前方に、祭礼空間を後方に置く鄕校建物配置の一般的な形である前学後廟の形式とは違い、明倫堂が大成殿と並んで建てられた独特な形態である。それ故に明倫堂がまるで祭需を用意する典祀廳のように感じさせる。これは教育機能を失った朝鮮後期 明倫堂の地位を明らかに見せている例である。それでも建物自体を見ればこの建築物はいかにも美しい。特に正面 5間は各柱の間に三分閣のビッサルムンをつけたが、まるで寺の法堂を見ているようだ。ここは鄕校の機能と関係ない小さい祠堂が詠歸樓の右にある。壬辰倭亂が起きた時命をかけて鄕校を守った鄭氏婦人の祠堂と言う。



○ 三嘉鄕校

指定番号 : 有形文化財 第229号

指定日  : 1983年 8月 6日

所在地  : 陜川郡 冶爐面 巢梧里 342外2筆地

規 模  : 8棟

材 料  : 木造瓦家

時 代  : 朝鮮時代


郷校は儒教のかつての聖賢を仰ぎ、地域社会の人材を養成し、美風良俗を教化する目的として設立された伝統時代の地方教育機関である。三嘉鄕校の建立年代ははっきり分からないが、世宗(1418~1450在位)の時、建てられたと知られている。壬辰倭亂が起きて焼かれてしまったのを光海君(1608~1623在位)時代に改築してから数回の修造を通して、地域の人材養成と地域文化発展に重要な役割を果たしてきた。

 郷校の空間は教育と祭礼の二つの領域に分かれる。儒生が学問を身に付ける明倫堂と日常生活を過ごす東․西斎は教育機能を担当し、孔子と著名な儒学者の位牌を祭る大成殿及び東․西廡は祭礼機能をそれぞれ受け持っている。三嘉鄕校の建物配置は教育空間を前の方に、祭礼空間を後ろの方に置く鄕校建物配置の一般的な形である前学後廟の様式を従っているが東․西斎と東․西廡がない。時代の変化によって各機能が弱くなったことから建物も一緒に無くなってしまったと推定される。大成殿は正面3間、側面2.5間の切り妻屋根だが、前の面は柱の間隔が広くて神典のように厳かで権威のある雰囲気を演出する。明倫堂も同じく太くて丸い柱、縁側に設置した欄干、すんなりした軒などは宮殿の殿閣のような感じがして、朝鮮初․中期郷校の位置を表れている。郷校の表門としての役割をしている風化樓は郷校の顔にふさわしく荘厳である。



○ 龜陰齋

指定番号 : 有形文化財 第234号

指定日  : 1983年 8月 6日

所在地  : 陜川郡 佳會面 含芳里 620、山27番地

規 模  : 7坪(正面5間、側面3間)

材 料  : 木造瓦家

時 代  : 朝鮮時代


 この龜陰齋は逍遙堂·尹彦禮(せい-ぼつ年未詳)先生が学問と後進養成のために1575年(宣祖 8)に建立した。彼は朝鮮宣祖の時、郭再祐将軍を手伝い、義兵を起した人物である。現在の建物は1810年(純祖 10)に改築したのである。

 龜陰齋は齋室として先祖の墓の世話をし、祭祀を挙げると、これを通して血続きの間に繋がりが固くなる役割をした。しかしこの龜陰齋は齋室でよく見掛けられない冊版を保管している壯版閣があり、本体に愼追堂、育英齋と同じ懸板がかけていることから教育的な機能を遂行する場所として利用されたみたいだ。多分最初は教育的な機能を目的で建立したが、後から齋室に変貌されたかも知れない。こういう現象は朝鮮後期に政府が書院の建築を押さえたら、本来書院として建てた建物の名前を齋室と名付けたりしたが、こここそこういう場合に該当すると考えられる。`ㄷ`字形の本体と`ㅡ`形の門屋に構成された龜陰齋の建物配置は慶南地方の一般住まいの住宅と似ている。と言うことで名称だけを分けて見るとどの上流階層のサルリムチェと変りはない。中央に3間板の間を置き、その両側にオンドル部屋を作り、さらにその前には傾斜地を利用して自然に1間の樓を建てた。樓はめったにない`亞`字 欄干を巡らして上品な雰囲気を表現した。



○ 鳳棲亭と陶村別墓

指定番号 : 有形文化財 第235号

指定日  : 1983年 8月 6日

所在地  : 陜川郡 鳳山面 鴨谷里 716外2筆地

規 模  : 鳳棲亭 正面 4間、側面 2間

       別墓  正面 3間、側面 2間

材 料  : 木造瓦家

時 代  : 朝鮮時代


鳳が住んでいると言う意味がある鳳棲亭は梧溪·曺挺立(1583~1660)が定州牧使と大司諫に就いた後、故郷に帰って来て建てた建物で彼が後学を養い、その辺りの学者達と交流しながら過ごしたところである。

 陶村別墓は陶村·曺應仁(1556~1624)と彼の息子である曺挺立の位牌を祭る祠堂で、二つの建物は南北の築に沿って並んでいる。特にこの別墓は陶村が壬辰倭亂の時 陜川で義兵を集めて活動したので彼を称える意味も含まれている。建物の配置形態から見ると自然を感じて心身を休める亭子の役割より、先祖に仕えて学文を身につき、後進を指導する書院としての性格が強い。この建物は元々ここから4㎞くらい離れた金鳳里にあった。ところが陜川ダムの建設でそこが水に沈めるようになって1988年にここに移して来た。



○ 存養齋先生文集冊板

指定番号 : 有形文化財 第248号

指定日  : 1985年 11月 14日

所在地  : 陜川郡 大幷面 柳田里 301

規 模  : 90版

材 料  : 木材

時 代  : 朝鮮時代


『存養齋文集』は朝鮮中期の学者である存養齋·宋挺濂(1612~1684)の文を1693年(肅宗 19)に彼の息子である宋之食が編集しておいたのを、1901年に子孫たちがこれを刊行したのである。ここには文集を製作するために作った冊版90枚が保管されている。全部6卷3冊で構成されているこの文集は先生の詩、当代の有名な学者達と交した書信、時局についての意見、それから地域社会の問題に対しての文など様々な文章が載せられている。特に東萊に倭館を増やすことを巡って先生の意見を示した文章は当時、士大夫が持っていた日本についての思いを分かることができる。また許穆と禮訟の問題を論じた手紙は禮学に対しての先生と当時、士大夫の思想を理解するのに非常に大事な資料である。先生は鄭蘊から学問を学び、科挙を通して官職に出て内外職をあまねく歴任した。許穆と趙任道などの南人系列と主に交流しながら、性理学の理窟を心得るのに熱中した。



○ 海印寺三層石塔

指定番号 : 有形文化財 第254号

指定日  : 1985年 11月 14日

所在地  : 陜川郡 伽倻面 緇仁里 10番地

規 模  : 高 310cm

時 代  : 統一新羅時代



 この塔は2重基壇と3層の塔身及び屋蓋石でできている統一新羅後期の典型的な石塔様式である。元々この塔の台は新羅石塔様式である2重〔二層基壇〕だったが、1926年に塔を修理する時、台を大きくしてさらに一層を加えて、本来に持っていた調和美を相当失ってしまった。

 4面の各角に柱〔隅柱〕を刻んだ以外に特別な彫刻はない。屋蓋石の台は新羅石塔の典型である5層になっていて、屋蓋石チュニョの端は少し上の方に曲がってなだらかにした。屋蓋石それぞれの角には小さい鐘〔風鐸〕がつけているが、元にあったのは無くなって後に改めてつけたのである。塔の頂上〔上輪部〕もやはり一部が消失され、頂上を支える台〔露盤〕と上を向いて咲いた蓮の華〔仰花〕、輪〔寶輪〕のみが残っている。1926年6月にこの塔を直す過程で上層台の石函の中から9個の小さい仏像が出てきたが、石塔を修理してからこれら仏像を再び塔の中に奉安した。またこの塔の前に象の目の模様を形象化した眼象と蓮の華柄が刻まれた拜禮石があったが、これも修理する時、石塔の前に移された。『朝鮮仏敎通史』では太祖が即位してこの塔を改築する時、大藏経をこの塔の中に奉安し、国の繁栄と国民の平安を祈ったという記録が伝われている。ところが1926年に塔を直す時、大藏経が見つからなかったので太祖が修理した塔がこの塔であるかどうかは論難の余地がある。さらに最近、寺を補修する時、経學院の辺りで新羅石塔の材料が発見されたことから違う石塔があった可能性も大きい。



○ 海印寺石燈

指定番号 : 有形文化財 第255号

指定日  : 1985年 11月 14日

所在地  : 陜川郡 伽倻面 緇仁里 10番地

規 模  : 高 310cm

材 料  : 花崗岩

時 代  : 統一新羅時代


 石燈は仏がいらっしゃる寺に闇を照らすために建てたのである。仏に対して燈供養に関わることなので仏を象徴する燈と共に法堂の前に設置される。この石燈もやはり元々は石燈の前にあったが、後に現在の位置に移した。移された理由と時期に関してははっきり分からない。

 石燈は台〔臺石〕と〔竿柱石〕、灯火を置く〔火舍石〕、〔屋蓋石〕などで構成されている。 竿柱石は元の形ではないので全体の大きさを分かることはできない。真っ下の四角い台には象の眼の模様〔眼象〕の柄を刻み、8角刑の〔上下臺石〕には8枚の蓮の花びらをそれぞれ地と空を向くように刻んだ。火舍石には4つの窓を作ったが、窓の間の4面にそれぞれ四天王像を浮き彫り〔陽刻〕したのが独特である。屋蓋石も同じく8角にして全体的な調和がとれ、一番上には丸い玉〔寶珠〕を置いた。刻まれた眼の模様と蓮の花柄の上品な彫刻技術、そして全体的の様式から見て統一新羅時代の石燈として考えられる。



○ 海印寺大寂光殿

指定番号 : 有形文化財 第256号

指定日  : 1985年 11月 14日

所在地  : 陜川郡 伽倻面 緇仁里 10番地

規 模  : 正面 5間、側面 4間

材 料  : 木造瓦家

時 代  : 朝鮮時代

 

大寂光殿は毘盧舍那仏を本尊仏として仕える華嚴宗寺の中心法堂である。仏が説法した真理が太陽のように宇宙を照らすのを形象化した毘盧舍那仏は仏教の真理その自体を象徴する仏像である。毘盧舍那仏を仕えている殿閣は大寂光殿以外にも華嚴殿と毘盧殿がある。

 ここの大寂光殿は802年(哀莊王 3)に順應·利貞この二人のお坊さんが創建した。創建当時の名称は毘盧殿だったが、1488年(成宗 19)に王室の支援によって学組大師がここを直す時、大寂光殿に名前を変えた。現在の建物は1817年(純祖 17)に焼かれてしまい、翌年改築したのを1971年に智冠お坊さんが再び修造したのである。大きい寺の中心仏殿にふさわしく正面 5間、側面 4間の多包系パルザック屋根をしている雄大な姿である。鄭敾が描いた海印寺の絵には大寂光殿が2層になっているが、1817年にあった火事以前には今よりもっと大きい建物だったはずだ。現在の姿は朝鮮後期の典型的な多包系パルザック屋根として改築過程でよほど変形されたことが分かる。法堂の中には竜溪祠から移して来た中央の毘盧舍那仏をはじめ、左右に木で造った文殊菩薩と普賢菩薩がある。その隣に4具の違う仏像と2具の地藏菩薩が奉安されているが、毘盧舍那仏と地藏菩薩が一緒に仕えているのはとても異例的である。これは周辺地域に焼かれた法堂にあった地藏菩薩を移して来たからだと推定される。



○ 雙淸堂實記冊板

指定番号 : 有形文化財 第257号

指定日  : 1985年 11月 14日

所在地  : 陜川郡 靑德面 省台里 596-1番地

数 量  : 98版

材 料  : 木板

時 代  : 朝鮮時代


『雙淸堂實記』は雙淸堂·車云革(1393~1467)の史跡を記録した本である。この本は1826年(純祖 26)に木版として刊行された。その時、製作された冊版はすべて37枚である。それ以来1925年に改めて61枚の冊版が製作された。現在ここの德源書院には二回に渡って刊行された冊版98枚が保管されている。

 この本には雙淸堂の行跡、1467年(世祖 13)に起きた‘李施愛の亂’の討伐に関した話、それからこの德源書院の設立と運営についての記録などが含まれている。特に‘ 李施愛の亂’の討伐に関わる記録はこの事件を理解するのにいい資料として評価される。先生は‘李施愛の亂’が起きると75歳の老齢にもかかわらず亂の鎮圧のためソンボングザングとして出征して戦っている中、戦死した。国では先生を二等功臣としてその功を誉め称えて労った。



○ 花山世橋冊板

指定番号 : 有形文化財 第259号

指定日  : 1986年 8月 6日

所在地  : 陜川郡 大幷面 回陽里 1418-1

数 量  : 65版

材 料  : 木版

時 代  : 朝鮮時代(1896年)

 

『花山世橋』は三槐堂·權時敏、花陰、權瀁、花山·權克経、砧淵·權鑑、竹菴·權萬宜、梅谷·權泰斗、國軒·權泰奎など安東權氏 8名の史跡を記録した本である。本は全部8券2冊に構成され、大体、一人に対しての史跡が一券程の分量に載せられている。この本は陜川郡 大幷面にあった安東權氏の家門で1911年に刊行したが、そこは陜川ダムの建設で水没された。『花山世稿』の序文は1905年にあった乙巳條約の締結を反対し、いわゆる乙巳五賊の死刑を主張した宋秉璿(1836~1905)が1896年(高宗 33)に書き、後記は安東權氏の後裔である權命熙が書いた。花山は慶北にある安東のかつての名である。



○ 追本祠、明谷祠

指定番号 : 有形文化財 第264号

指定日  : 1988年 12月 23日

所在地  : 陜川郡 冶爐面 汀臺里 572-2

規 模  : 追本祠 正面3間、側面2間

       明谷祠 正面3間、側面1間           

数 量  : 2棟

材 料  : 木造瓦家

時 代  : 朝鮮時代


 この追本祠と明谷祠には裵氏が始祖として仕えている裵祗沱をはじめ裵賦(新羅 末期)、裵玄慶(?~936、慶州 裵氏)、裵元龍(高麗 末、金海 裵氏)、裵孟厚(朝鮮前期、興海 裵氏)などボングァンが違う10方の裵氏 先祖の位牌を祭っている。裵氏は10個くらいのボングァンが伝われているが、すべて新羅の六部族の中で一つだった金山加利村(漢祗部)の村長である裵祗沱から淵源する同じ根本の血族〔同系血族〕に知られている。

 追本祠は1537年(中宗 32)に建てられたが、その後に崩したのを1948年に現在の位置に移して新たに建てた。祠堂は正面 3間、側面 2間の切妻屋根の建物である。特異なことは建物の前に柱を別に設置し、前方を開けた空間にしたのである。明谷祠は元々1675年(肅宗 元年)に建てられた明谷書院の祠堂だったが、高宗の時、断行された書院撤廃令によって崩された。その以降、1938年に明谷祠として再建され、1948年に今の位置に移された。正面 3間、側面 1間の切妻屋根の建物である。

 



○ 陜川 外吐里 雙碑

指定番号 : 有形文化財 第291号

指定日  : 1993年 1月 8日

所在地  : 陜川郡 三嘉面 外吐里 424-2番地

規 模  : 孝子碑 高 112cm、 碑の幅 31cm

       白碑  高 110cm、 碑の幅 32cm          

数 量  : 2基

材 料  : 花崗岩

時 代  : 高麗 禑王 9年(1383)


 ‘外吐里 雙碑’はここの地名が外吐里で碑閣の中に二つの碑石が並んで立っているのでつけた名前である。碑閣の正面から見ると、左の方にある碑は前面に‘孝子里’と言う文字が書かれた孝子碑である。碑の裏には碑石を建立した目的─高麗末にこの村に住んでいた醫正·李縕(せい-ぼつ年未詳)先生の孝行を称えるため─が記録されている。先生は父が亡くなると50歳にもかかわらず、墓の隣に穴蔵を立て3年間、墓を守ったと言う。こんな先生の孝行が世間に知られて、1383年(高麗 禑王 9)に国で命令を下し、碑閣と共に碑石を建てた。

 右側に建てられた石碑は摩滅しすぎてその内容を分かることはできない。但し、左にある碑に書かれた記録から見るとこれもやはり孝行に関して建てられた碑石だと推定される。左側の碑は1383年に建てられた明確な記録が残られているが、珍しい高麗時代の孝子碑と言うことで歴史的な価値がある。元々は碑石の本体だけがあったが、1686年(肅宗 12)に碑石の台〔臺石〕と 屋蓋石〔ツァル首〕を作って新たに建てたという。その後、先生の孝行を世間の人の鏡とするために人の往来が多いワンドングマウルの前に移して建てた。ところが日帝强占期時代に道路工事をしたので元に碑があった位置のここに改めて移して来たと言う。



○ 陜川 華陽里 冶川 神道碑

指定番号 : 有形文化財 第301号

指定日  : 1994年 7月 4日

所在地  : 陜川郡 妙山面 華陽里 山53-4番地

規 模  : 高さ 210cm、幅 90cm、厚さ 30cm           

数 量  : 1基

材 料  : 海石

時 代  : 朝鮮時代


神道碑は墓の前とか墓に行く道の要所に建て、死んだ人の業績を称える碑石のことを示す。一般的に神道碑は墓の東南の方に建てるが、それは東南の方が‘神霊の道’〔神道〕として思われたからだ。

 この神道碑は冶川·朴紹(1493~1534)先生の業績を称えるために1590年(宣祖 23)に建てた。先生は金宏弼の門人で、1519年(中宗 14)に文科に壯元及第してから 王道政治の具現のために努力した。しかし当時、朝廷の勳舊波から弾劾され、官職を辞した以後、母方である陜川に来て学問に専念した。先生が死んだ後、国では彼の功を認めて‘領議政’の官職と文康と言う諡号を授けた。碑文は思菴·朴淳が作り、字は石峯·韓濩が書いた。潘南·朴氏 門中で1993年に碑閣を建て碑石を守っている。



○ 海印寺 經學院

指定番号 : 有形文化財 第329号

指定日  : 1997年 12月 31日

所在地  : 陜川郡 伽倻面 緇仁里 10番地

規 模  : 正面 5間、側面 4間             

数 量  : 1棟

材 料  : 木造瓦家

時 代  : 朝鮮時代(1892)


 この建築物は1891年(高宗 29)に統制使·閔炯植(1859~?)の意見によって梵雲堂 ツィギョン和尙が国王と明成皇后及び世子の安寧を願うために建立したと伝われている。創建当時の建物の名前は景洪殿だった。建物はよく磨いた石で築台を積んで、その上も同じくよく手入れした台〔基壇〕を置いた後、その上に建物を築いた。建物の台には竜とうわばみのように不思議な動物たちで飾ることで王と皇后、世子を仕える建築物としての威厳と品を備えようとした。建物も正面 5間、側面 4間の派手な多包系のパルザック屋根にして建物の地位にふさわしく華やかなだけではなく、特に中央にある柱の間を広くして建物の中心部分を強調した。

 この建物はいつから経学院と言う名で呼ばれるようになったのかは分からないが、1968年に改築された。その翌年から行者が泊る所〔行堂〕にいた高僧の肖像画〔影幀〕をここに移して来て、1975年からは海印寺にある僧伽大学の図書館として活用されている。



○ 來庵·鄭仁弘先生關係 古文書及び書籍

指定番号 : 有形文化財 第330号

指定日  : 1997年 12月 31日

所在地  : 陜川郡 伽倻面 黃山里 19-3番地

規 模  : 敎旨 41cm×58cm内外、書冊 31cm×21cm内外       

数 量  : 92點

材 料  : 紙

時 代  : 朝鮮 光海君


 ここには來庵·鄭仁弘(1535~1623)に国で下した敎旨類·21點と諭旨·55點をはじめ楽な席と杖を降ろす文書〔?杖下贈文〕、‘領議政 追贈 勅令’など総92點の文書が所蔵されている。鄭仁弘は南冥·曺植の一番の弟子で郭再祐などと共に南冥学派を代表する人物である。1558年(明宗 13)に科挙に合格した以来高位官職をあまねくつき、壬辰倭亂の時は義兵将として目覚ましい活躍をした。ところが1623年に仁祖反正が起きると逆臣に追い込まれて死刑に処せられた。この時、失墜された彼の名誉は1908年に至ってようやく回復されたが、ここで保管している純宗が下した‘領議政 追贈 勅令’がそれを証明する。指定された遺物の中には特別に国王が授けた文である諭旨が55點で半分以上を占めている。この文の中で朝鮮王朝實錄にも書いていない内容が含まれているので、当時の複雑な政界を研究するのに大事な資料として評価されている。

 



○ 內庵·鄭仁弘先生 先代配位 及び 後孫贈    職 敎旨

指定番号 : 有形文化財 第331号

指定日  : 1997年 12月 31日

所在地  : 陜川郡 伽倻面 黃山里 19-3番地

規 模  : 48cm×59cm内外

数 量  : 17點

材 料  : 紙

時 代  : 朝鮮 光海君(万年暦30~43年)


国に手柄を立てるとか孝行が優れた人物に死んだ後で官職や官品を授けたりまたは生存の職位より上したりすること〔追贈〕を‘贈職’と言う。それにこういう‘追贈’は一般的に本人の贈職のみならず先代まで影響が及ぼして先祖の品階や呼称も高めることになった。贈職制度は三国時代からあったが、現在 残っている贈職文書はほとんど朝鮮時代のである。1746年(英祖 22)に刊行された『續大典』に贈職制度が明文化された以来にそれほどの変わりはなく朝鮮末まで続けてきた。贈職を命する文書は敎旨の形式にのっとり、文書を貰った人はこれを同じく書いて贈職者の墓所の前で燃やす儀式を行った。ここには鄭仁弘先生に授けられた贈職文書をはじめ、彼の親、祖父母、曾祖父母に下された贈職文書などすべて17枚の贈職文書が残っている。



○ 鄭稜 敎牒 及び 敎旨類

指定番号 : 有形文化財 第332号

指定日  : 1997年 12月 31日

所在地  : 陜川郡 伽倻面 黃山里 19-3番地

規 模  : 幅 44cm×52cm、長さ 49cm×86cm

数 量  : 22點

材 料  : 紙

時 代  : 朝鮮 光海君(万暦41~47)

 

 ここで保管している敎旨は国で來庵·鄭仁弘先生の孫である鄭稜(1590~1615)に授けたのである。1613年(光海君 5年)12月に正九品の從仕郞を下した敎旨を皮切りに、1616年4月に下した山陰県監、1618年12月に下した從三品である通訓大夫、それから1619年11月に居昌と新安県監を授ける敎旨などすべて22枚である。この中に1616年4月に山陰県監を授ける敎旨には次のように特別な事情がある。『光海君日記』1615年(光海君 7)9月19日條によると朝廷は左議政·鄭仁弘に秋になるとあげる祿を降りた。ところが鄭仁弘はそれを貰わなく故郷に帰ってしまった。また同じ年11月16日條と11月30日條にも続けて鄭仁弘に祿を降ろす内容があるが、鄭仁弘は決してそれを貰わなかった。と言うわけで朝廷では翌年4月30日に彼の孫、鄭稜に山陰県監の官職を授け、彼に80高齢の祖父を奉養するように命ずった。と言うことからこの敎旨は鄭仁弘が当時、政局で占めている比重を推測することができる重要な資料である。



○ 陜川 竹古里 三尊石佛

指定番号 : 有形文化財 第338号

指定日  : 1998年 11月 13日

所在地  : 陜川郡 赤中面 竹古里 山40、山37番地

規 模  : -本尊仏 : 高さ160cm 幅70cm

              -立像仏 : 高さ120cm 幅40cm

数 量  : 3基

材 料  : 花崗岩

時 代  : 統一新羅時代


 竹の畑の橋に位置しているこれら仏像は元々墓があった場所に墓の持ち主の極樂往生を祈るために築造したと推定される。しかし現在、墓はなく3基の仏像のみが残られた。中央の四角い台の上に跏趺坐をしている仏は毘盧舍那仏である。毘盧舍那仏は“遠くまで明るい光りをあまねく照らす”〔光明遍照〕と言う意味の光りの仏で真理その自体を象徴する。この仏は〔蓮花臺〕の上に座って、左手の人指し指を右手で握る形象〔智拳印〕を取っている。これは仏と衆生が一つであることを象徴することで、毘盧舍那仏ばかり見られる。

 一方で蓮花臺は毘盧舍那仏が治める宇宙萬物をしまっておいた蓮華藏世界を象徴する。仏の首の部分が壊されて、セメントで直したが顔はまだひどく摩滅されている。服は左肩のみにかけて、両膝の間の幅は狭い。左右に建てられた二つの仏像は中央にある毘盧舍那仏を仕える脇侍仏のようだが、非常に磨り減ってその姿を見にくい。しかし仏像の顔がまるで武士みたいに謹厳に表現されたところが独特である。様式技法から見ると統一新羅時代の末期とか高麗時代の初期のものだと推定される。



○ 陜川 弘濟庵 壬亂 三和尙 影幀

指定番号 : 有形文化財 第359号

指定日  : 2000年 8月 26日

所在地  : 陜川郡 伽倻面 緇仁里 21番地

規 模  : 幅 92cm、長さ 138cm

数 量  : 3點

材 料  : シルク

時 代  : 統一新羅時代


 ここ弘濟庵·表忠祠には壬辰倭亂の時、僧兵將として名を知られた淸虛堂·休靜(1520~1604)、四溟堂·惟政(1544~1610)、騎虛堂·靈圭(?~1592)この三和尙の眞影が祀られている。淸虛堂を中心に左に騎虛堂、右に四溟堂が椅子に座っているが、顔は皆左の方を向いている。

 淸虛堂と四溟堂は緑色の長衫に赤い色の袈裟を着ているが、安定感ある姿勢、堂々としている風采、それから威厳のある顔から僧兵将としての権威を感じることができる。濃い茶色を背景にして赤い背中支えのある椅子に緑色長衫だけを着て座っている騎虛堂は独特な姿勢で上半身を前に出して右の足を立てているので他の二大師の影幀よりも不自然な様子である。一般的に寺の中に奉安されている三和尙の影幀は左右にある人物の顔の方向が中央にある人物の方に向いているが、ここにある三和尙の影幀はそれぞれ個性あるように表現した。全体的に優れた色感が絵の品格を高めている。朝鮮時代後期の仏教美術史研究に貴重な資料である。



○ 陜川 寂然禪師 浮屠

指定番号 : 有形文化財 第360号

指定日  : 2000年 8月 26日

所在地  : 陜川郡 佳會面 中村里 329、山24番地

規 模  : 高さ 120cm、幅 40cm

数 量  : 1基

材 料  : 花崗岩

時 代  : 統一新羅時代


 仏の舎利を奉安する塔と違い、浮屠は一般の仏の舎利と遺骨を奉安する構造物である。この浮屠は塔身部と相輪部がなくなり、3壇の臺石と屋蓋石だけが残っている。なくなった塔身部は浮屠の上にある寺に保管しているのが確認された。

 下臺石は各面に象の眼を形象化した眼象を輪郭線として刻んで、その線の内側に霊妙な動物模様〔靈獸像〕を浮き彫りし、その上にまた雲と竜の模様〔雲竜文〕を彫っていかにも高級に飾った。上臺石には二重になっている蓮の花柄が空を向いて咲き、塔の本体を支えるようにした。上·下の臺石を繋げる柱の役割をする中臺石には特別な飾りはなく、眼象のみに彫刻した。それから屋蓋石は各面の端を少し上げて造り上げた。記録によると、1014年(高麗 顯宗 5)6月に寂然禪師(932~1014)が83歳で入寂すると靈巖寺の西方の峰で葬事を行ったと言う。この浮屠が立っているところは靈巖寺の西方に該当するので、この浮屠の持ち主は寂然禪師であると推定している。



○ 陜川郡守 李增榮 遺愛碑

指定番号 : 有形文化財 第367号

指定日  : 2001年 12月 11日

所在地  : 陜川郡 陜川邑 陜川里 山1-2番地

規 模  : 横 87cm、厚さ 17cm、縦 202cm

数 量  : 1基

材 料  : 花崗岩

時 代  : 朝鮮時代(竪碑 : 1559年)


 南冥·曺植先生が文を作り、孤山·黃耆老が書いたこの碑は陜川郡守を歴任した李增榮が酷い凶年に民を救恤し、清廉に官職生活をした内容が記録されている。

 碑石の大きさは横 87cm、縦 202cm、太さ 17cmである。碑石の書体は楷書で全体13行に各行は25字が刻まれている。



○ 陜川 海印寺 所藏 大寂光殿 重建 上樑文

指定番号 : 有形文化財 第399号

指定日  : 2003年 9月 3日

所在地  : 陜川郡 伽倻面 緇仁里 山21-1番地

規 模  : 横 483cm×95cm

数 量  : 1點

材 料  : シルク

時 代  : 朝鮮時代(竪碑 : 1559年)


 秋史·金正喜(1786~1856)が1818年、彼が33歳の時作った『伽倻山海印寺重建上樑文』を紺色のシルクに金泥を使って、彼自身が直接に楷書で書いたのである。シルクの大きさは横483cm縦95cmで文字の大きさは大体に横3.5cm縦4.1cmくらいだ。すべて67行で各行が20字ずつになっているが、六偉詞は下の部分を開けたまま行を変えた。本文の文字は1、195字で、題目と年紀部分まで合わせると金泥で書かれた文字は1,215字である。所々金泥が若干脱落された文字はあるが、全般的の状態はわりといい。

 シルクに書かれた上樑文だけを基準にして見ると、文を作った人と文字を書いた人がだれかは分からない。何故なら終りの部分に“維王十八年戊寅”だけを書いて仕上げたのである。ところでこの上樑文が1971年、大寂光殿改築工事の時、上樑で初めて出てきて、包装に書いてあった“嘉慶二十三年戊寅大施主慶尙監司丙戌生金魯敬保體自施自稿”と言う文章を証拠にすると、この上樑文の撰者を慶尙監司·金魯敬に断定することになる。金魯敬は秋史の父で彼が觀察使として在任していた1818年2月に慶尙道に来た記録がある。この上樑文の字はとても秋史體のごとき感じさせられるが、部分的に画が太くて秋史體が完成される以前の形態を典型的に見せているので書者は秋史だと判断される。この分が秋史の文集である『阮堂集』に載せていることから多分撰者も秋史だろう。上樑文の包装に金魯敬が作ったように表現されたのは、秋史がこの上樑文をお父さんのために代作したことを意味する。

 上樑文は建物の骨格が完成される時点で梁に書き入れる文である。一般的に建物を建てるようになった背景とその過程を駢儷文で表わして、最後に六偉詞を入れて天地と四方の神明にこの建物に災害が起らないように祈る内容が収めている。この上樑文の前は駢儷文になっているが、海印寺自体についての具体的な情報よりも仏教、一般に関した幅広い知識が文章化されている。六偉詞の部分は一般的には上·下·東·南·西·北を韻字にする詩で構成されるが、この上樑文の六偉詞の部分は押韻しない五言詩になっているかたわら詩の初文字をそれぞれ上·下·東·南·西·北にしている特徴がある。この上樑文は一般的な上樑文の大きさと比べてその類例がないくらい大きい高級紺色シルクに書かれ、すべての文字を金泥で書いた上に、秋史體で有名な金正喜が壮年時代に書いた楷書と言うところが最も注目される。更に自分が作った文章を自分が直接に書いたことや六偉詞の部分に韻字なしに詩を作ったことや上樑文の形にとっては非常に破格的だと言える。



○ 陜川 海印寺 所藏 銅製 小鍾

指定番号 : 有形文化財 第400号

指定日  : 2003年 9月 3日

所在地  : 陜川郡 伽倻面 緇仁里 山21-1番地

規 模  : 高さ 30cm

数 量  : 1點

材 料  : 銅製

時 代  : 高麗時代


 高さ30cm程の銅製小鍾で、鐘の内部は比較的均一に表面処理されている。但し竜鈕部分の竜の頭と片足の部分が破損され、鐘身部にも2cmくらいの割れた穴の跡とその周りに亀裂の跡が見掛ける。全体的に鐘身の高さ21.3cmと口緣部の直径21.6cmがほぼ同じ1:1の割合をしている。音筒は竹の二節を表現した竹節形で、上帶の上の突起帶は葉脈文が刻まれたダンパンゲ蓮の葉が巡らされている。上帶は花文が配置されていて、下帶は唐草華文が上下に続きながら連続に位置している。鐘身部の乳廓は一定な間隔を維持し、配置された四つの乳廓は9乳の周囲に唐草文を簡単に刻んだ乳廓台を巡らしている。鐘身の下端、乳廓と乳廓の間にある撞座は突起帶の蓮瓣のように葉脈文が刻まれたダンパンゲ蓮の葉を重瓣形式で配置したが、陽刻をしたので突き出ている状態で、子房には花形模様に巡らされた1+5顆の蓮子が陰刻に彫刻されている。一部破損された穴の跡はあるが、その以外に全般的な状態は良好だ。製作時期は鐘の割合と撞座の表現技法などから見て高麗後期13世紀以後の作品だと判断される。



○陜川 三嘉 下板里 曺彦亨 墓碣

指定番号 : 有形文化財 第410号

指定日  : 2004年 7月 1日

所在地  : 陜川郡 三嘉面 下板里 山30番地

規 模  : 碑身:高さ 120cm、広さ 97cm、厚さ 10cm

       碑首:高さ 55cm、 広さ 97cm

数 量  : 1基

材 料  : 花崗石

時 代  : 朝鮮時代


この碑石は南冥·曺植の父である曺彦亨(1469~1526)の墓碣で嘉靖7年 戊子(西紀1528年)10月に造成された。曺彦亨は1504年、文科に及第して22年間仕宦し、官職が正三品 堂下官である通訓大夫 承文院 判校まで上った。碑石は下端で左の20cmから右の50cm部分に斜めに亀裂があって、4字くらいは文字を見られない。

 石質が磨耗しやすい砂巖にもかかわらず他の文字はまではっきり見える。この碑石は碑首と碑身を一つの石にして両側の側面に砥柱石をつけた。これは風と雨からある程度碑石を守られるようにし、一方では品の高いことと共に権威を感じることができるようにした。碑首は二匹の竜が如意珠を保護している形にしたが、如意珠が碑首の大きさのわりに大きく見える。これは二匹の竜の口から如意珠まで間隔をおいて如意珠がとても目立つように表現しているからだ。これはまるで南冥が自分の心を修養しながら提示した、“竜が如意珠を守るように常に心に忘れてはいけない”(如竜養珠心不忘)と言う節を形象化したみたいだ。



○陜川 三嘉 下板里 淑夫人 李氏 墓碣

指定番号 : 有形文化財 第411号

指定日  : 2004年 7月 1日

所在地  : 陜川郡 三嘉面 下板里 山30番地

規 模  : 碑身:高さ 126cm、広さ 75cm、太さ 18cm

       碑首:高さ 55cm、 広さ 90cm

              座臺:高さ 60cm、 長さ 180cm

数 量  : 1基

材 料  : 花崗石

時 代  : 朝鮮時代


 この碑石は1548年2月以降に建てられたと推定され、曺彦亨(1469~1526)の妻 仁川 李氏の墓碣である。碑は曺彦亨の墓から東南の方に約300m離れた下に位置している。保存されている状態は民家と遠くて外部人の手が届かなかったので磨耗しやすい砂巖にもかかわらず竪碑してから450年が過ぎた今まで比較的に良い状態を維持している。

 この碑石の形は碑首を二匹の竜が如意珠を守る形状にしたが、如意珠が碑首の大きさのわりに大きく見える。それから二匹の竜の口から如意珠までの間が空いているので如意珠が一層、目立つように表現されている。

 これは曺彦亨の墓碣の碑首と似ているが、前面の下の部分と後面に雲の模様を多く刻んで、 ヨングトルイムと尾の部分が見えないのでずっと大人しく見える。これもやはり南冥が自分の心を修養しながら“竜が如意珠を守るように常に心から忘れてはいけない”(如竜養珠心不忘)と言う節を形象化したみたいだ。



○陜川 巽木里 永慕錄及び无悶堂集 冊版

指定番号 : 有形文化財 第470号

指定日  : 2008年 1月 10日

所在地  : 陜川郡 龍洲面 巽木里 481番地

規 模  : 横 52.5cm、縦 27cm、厚さ 2cm

数 量  : 152枚

材 料  : 木版

時 代  : 朝鮮時代


 陜川 巽木里 永慕錄は『永慕錄』の原集17章と拾遺7章など総24章12枚で構成されている。大体の大きさは横 52.5cm、縦 27cm、厚さ 2cmで、匡郭の大きさは横 32.5cm、縦 20cmである。

『永慕錄』の製作いきさつとその重要な内容及び特徴は无悶堂·朴絪(1583~1640)が自分の父である釣溪·朴壽宗(1565~1619)の遺稿と附錄文字をまとめて1627年に製作したのである。すべて24章に過ぎないので1冊にしてもうすく、文集のようにホを出さなかったことから人に見せるよりも子孫に伝えるために製作されたようだ。

 遺稿4編が前に載せられ、その後に輓章21編と祭文7編及び墓碣銘が順番に載せている。この附錄に載せられた輓章や祭文の作者やその内容から見て、朴壽宗が萊庵·鄭仁弘のゾンメブで彼の門人になって他の萊庵の門人との交際がとても深かったことが分かる。

 この本はその分量は少なく、作家もそんなに偉大な人物ではないが、仁祖反正の以来、南冥学派の動向を分かるいかにも珍しい資料である。

 无悶堂集 冊版は正祖22年(1790)正月に立齋·鄭宗魯が撰述した跋文と甲戌(1814)年7月に无悶堂の5代孫、朴聖林が撰述した跋文がある。と言うことは1790年頃から刊行のための準備をして1814年頃に冊版が完成されたみたいだ。

 この冊版は全部で279章140枚で、別集1·2章1枚をおいてすべて保存されているかたわら文字を見分けできない程、壊されたのが4章である。

 



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